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【信州・要衝地「石置き屋根」旧家/日本人のいい家⑰-1】




本日からはふたたび日本民家園に移築の旧家訪問シリーズ。
長野県伊那部宿という長野県の一番南端、すぐに岐阜県になる地域で
小作200軒を擁する地域の大農家であり、薬種問屋、旅籠も営んでいた
まさに地域の経済活動中心的な家である旧三澤家住宅。
移築された住宅の建築年代は19世紀半ばで、おおむね180年前。
ただ、この家系自体は相当古くから地域の中心を担っていたことは明らか。
現存する住宅自体はその程度の時間経過だけれど、
その倍は下らないだろう家系存続なのでしょうね。
まぁこういう「家」がゴロゴロしているのがニッポンの普通のありようですね。
古民家で残っている住宅建築は主に江戸期からが一般的。
歴史の授業では江戸期は「士農工商」の厳格な身分社会、と言われるが、
知れば知るほどそれは武士の勝手な社会把握概念であり、
民の側では、生業については当然のごとく融通無碍に生きている。
そういう消息が住宅の事例を見ていれば一目瞭然だと思います。
この三澤家もまことにいくつもの経済活動痕跡が見て取れる。
まずは小作200件を超す大農家である側面。
小作たち収穫のコメを積んだ牛車がこの家の正面左手の入口を通り
通り土間を抜け奥の蔵に貢納させた伝承からその規模が想像される。
間取り図を合わせて見ると、この土間入り口には事務所があって、
そこで「検品」していた様子までが読み取れる。
おっと、こういった生業的側面については明日以降にします。
まことに見どころの多い多機能型の生業の大型住宅ですが、
本日は屋根の葺き方での「石置き板葺き屋根」に着目してみます。

ほぼ同時代建築の北海道沿岸部漁家でもこの形式が見られるのですが、
風の強い地域で積雪はそれほどでもない地域で採用される葺き方とのこと。
北海道開拓の最初期、開拓使建設部では板葺きが一般的に採用された。
今も残る屯田兵屋ではその様子をみることができますが、
そのルーツになったのが、この板葺き石置き屋根なのだろうと思います。
ただし、開拓使建築では屋根に石を載せるようなことはしていない。
北海道では西部沿岸地域では風が強いけれど内陸部ではそれほどでもない、
そういった事情が反映しての屋根工法選択だったように思われます。
板葺(いたぶ)きの上に石を置いて、板が風で飛ばないようにした屋根。
なかには石が転げ落ちないよう縄で結わえているものもある。
瓦がまだ普及していない時期には板がもっとも信頼できる葺き材料で、
しかも釘などがそれほど豊富に使用できなかった時代の痕跡とされている。
三澤家の屋根は山間地域として豊富に生産されるクリなどの板を使っている。
一枚の板は長さ40-60cm、幅は10cm、厚さ1cmほどに割られたもの。
それを屋根に敷き並べ、押さえるためにヒノキを割ったヤワラと呼ばれる押し縁で
抑え込んだ上に平らな石を並べるという仕様。石はなるべく平らなものを利用。
丸いモノは滑落の危険性が高かったのだとされる。
石が揃っているような印象を受けるように、手前側ほど大型の石を置くとされます。
遠近法で知られる江戸期・北斎ですが、日本的な遠近法初源なのかも。
長野県伊那地方は冬でも雪が少なく、雪下ろしをすることもないとされます。
雪を下ろすとき、石があればいっしょに落ちてしまう危険が高いので理解出来る。
夏場には板が反り、雨漏りすることもあるので、2−3年でオモテ返し。
石置き屋根の欠点としては石を置く安定性の確保のために屋根勾配がゆるく、
屋根水が溜まりやすく、板が腐りやすいということ。

日本の気候風土に合わせて、古民家はさまざまな対応方法で
しなやかに工法開発してきた伝統を持っていることが知れますね。
そして日本は南北に長く、高低差も大きい国土なので
一口に古民家といっても、実に多様性に富んでいることがわかります。
戦後の「画一化工業化」住宅が、はるかに「特殊」なモノだと言うことがわかる。

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